LANVINの冷めるような青。

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ネクタイを買いに有楽町の阪急メンズ館へ。今まで行きたいとは思っていたけどなかなかチャンスがなくて行けていなかったからこのタイミングで行けてよかった。印象として伊勢丹よりも庶民的で入りやすい店だということがあった。全体的にとっつきにくさが少なくて普通の百貨店という感じ。個人的には気楽でよかった。接客が最初は激しくて若干怖かったけれど上の階に上がったらそうでもなかったし。だからこそ今までとっつきづらさのあったランバンでネクタイを買えたわけだし。路面店とかだったら多分買えていなかった。まさか最初はランバンで買うとは思っていなかった。実際ポールスミスで探していたわけだし。とはいえどこを見てもピンとくるものが少なかったのも事実。せいぜいジャックスペードぐらい。それでさえ納得がいっていたわけではないし。そんな中で今回のネクタイは出会いだったと思う。久しぶりにこれだという感覚でそのまま決めたものだった。ただ今日決めなければならないというプレッシャーやめんどくさくなっていた思いがあったことも否めない。ブランドに頼っておけばいいだろうという考えもあったりと悩みは尽きない。年々そうやってブランドに頼るときの値段が上がっていっていて割と怖い。節操ないのかとも思うし。カルヴェンのコートはかなりよかったけど15万もするものを一瞬でも買おうとした自分はいつの間にかブランド至上主義になっている気もする。身分相応なものを身につけるべきなんだろう。それでも今回買えたネクタイは満足のいくものだったし、そういう意味では良い買い物ができたかな。

すみだ水族館。

展示が凝っていて、魅せる水族館とはこういうものかと感じた。一方で蜷川実花が演出したというくらげの展示は、色味が多く、くらげの白さからくる神秘性がボケているような気がしたからあまり好きではなかった。蜷川実花の鮮やかすぎる色彩感覚がくらげの持つ繊細さと合っていないような気がしてしまって仕方がなかった。携帯のファインダー越しに見た際にそれを強く感じたのだけれど携帯を使うことでしか自分を信じられなくなっているようなことにも少し怖くなった。全く蜷川は関係がないけれど。

そんな中で自分の目を最も引いたのが金魚たちの展示。彼らが尾びれをはためかせながら泳いでいる様を上から、横から堪能した。特に上からの構図は原風景に焼き付いているからか懐かしさと神聖さを兼ね備えていて引き込まれる。それと真上からライトを当てていたもの。彼らの影が真下に出来るから宙に浮かんでいるように見えてそれもまた楽しい。

それともう一つ楽しんだのがオットセイや亀への餌やり。これはもう展示の仕方がどうのこうのではなく飼育員さんの生き物への声かけを聞いているだけで愛が伝わってきてただただその場が多幸感に包まれた。餌をなかなか見つけられずくるくるとその場で回る亀に対する呆れた眼差しと、口元へ運んでやる母性のような愛情。どれだけ装丁や加工を凝ったとしても最終的に人を惹きつけるのは、生き物の意思であり、交流なんだろうと感じた不思議な水族館体験であった。

ラーメン二郎 関内店

目黒に続いて二回目の二郎。前回行ったときと比べて何倍も美味しく感じた。前回は何が悪かったのだろうか。今回の方が味がしっかりしていたし、にんにくも嫌な感じがしなかった。店の雰囲気も笑っても許されるような空気感だったし、何よりも店員さんたちに笑顔があったのが印象的だった。

 

書いていて思ったのだけれどこれらって普通の飲食店だったら当たり前のことなんではないのだろうか。なぜ目黒店に行った際にはひたすら早く麺をすすってすぐに店を出ることだけを考えなければならなかったのか。

 

また、どれだけ美味しいとは言っても3口目を終えると味に飽き始めて修行モードに入ることは変わらない。どうなっているのだろうか。またいつか食べに行きたいとは思う。それでもあれだけ並ぶことだったり独特の文化が形成されていることだったりと納得のいかないことは多い。

 

味として嫌いではなく好きだったからこそ、未だに二郎は私にとって全く不可侵で畏怖の念にさいなまれるものであり続けている。

海外旅行から帰ってくると。

海外にいることによってその土地のことがわかるけれどそれ以上に日本との違いを見ることによって客観的に日本がどうなっているのかわかる。それがマクロな視点としてあって、ミクロなところで現実逃避出来ると思っていたけど案外自分の悩みが浮き彫りになっていく感覚があった。それはあたかも日本にいるときは土で塗り固められていた部分が向こうにいると発掘作業で心が露わになっていくかのような不思議な感覚だった。ふっと水面に浮かんでくるものがあってそれは日本にいるときに何かわからないけどもやもやすると思っていた原因となるもの。それがヨーロッパに行っていたからなのか全てを忘れにいくという目的から来たものかのかわからないけど皮肉なもので逃げようと思えば思うほど鮮明になっていく。絶望の淵に沈んだのは確かだけれどそこから逃げ出したいとは思わなかったしある意味受け入れているようだったのは不思議な気がする。また考えなきゃいけないけど今書けるのはそんなところ。

京都旅行記その6

f:id:sakusakukutakuta:20161205154742j:image龍安寺を諦め国立博物館へ向かう。この時点でへとへとだった。昨日から歩き通しで関節が痛み、それがメンタルにも影響を及ぼしていた。結果として効率だけを追い求めてできるだけ京都を摂取する方向から少し方針転換。この時が最も暮らすように旅をしていたかもしれない。バスでツイッター見てただけだけど。んでゆっくりと国立博物館へ向かうと入館時間を過ぎていた。ここまでほとんどそういったミスを犯していなかった上に龍安寺を諦めていたわけだからかなりショックだった。企画展がある際には18:00までで通常は17:00までというものを、きっと企画展くらいやっているだろうと決めつけてろくに調べなかった。疲れの影響はあったんだろうがフィジカルの問題が思考に直結していることを実感。よくよく考えればミスする気配は濃厚だっただけに妙な納得をする。メンタルが付いていってなかった。逃げずに向き合うこと。疲れていたせいで明らかに考えることを諦めてしまっていた。考え続けるということから逃げないようにしなければ。後悔が強い。フラフラになりながら時間の使い方を再考。結果として前日に行きそびれた銭湯に行くことに。向かっている最中に飯屋の匂いをかいだせいで急激に自分の空腹に気がつく。今回の旅でうまく行ったことは行きたいものは早めに済ませていくという点だったんだけど、銭湯と飯屋の順列が入れ替わった。昨日のおっさんが勧めてくれたTAKAへ。普通だったら絶対にいかないようなおしゃれな路地の一角にある立ち飲み屋。よく入れたと思う。4000円かかったけどめちゃくちゃおいしい。会話がなかったのが残念だった。せめて後から入ってこられたスペイン人の方と話せればよかったんだろうけど。もうすこしコミュニケーションを取る意思を出したほうがよかったな。あとは同伴っぽいものをちゃんと目の当たりにした。うんちくを語るおっさんのウザさが半端じゃない。あんな大人にはならないようにしよう。

 

書き忘れていたけど迷ってたら丸善にたどり着いていた。店舗は変わってしまっているけど京都の丸善。檸檬を置けるサービスはわかっているとしか言いようがない。どれだけ作られたイベントだとわかっていても置いた瞬間はめちゃくちゃテンションが上った。イマイチ共感しきれていなかった「檸檬」の主人公の気持ちが初めてわかったような気がした。あとその建物にMARUNIとか入っていておしゃれさが羨ましかった。その後時間もないまま銭湯に。初めてThe昔ながらの銭湯といった風情の場所に行ったわけだけど、俺が行っていい場所ではないんだろうなとは思った。あとめっちゃお湯が熱い。江戸っ子だのなんだのってなんだったんだよ。むしろ東京の銭湯どんだけ熱いんだろうか。もうちょっと人生の酸いも甘いも味わってからああいった店に行って常連になるべきなんだろうなと思った。ただ番頭になりたい理由とかはちゃんと実感できた。椅子とかめっちゃ低いけどあんなもんなんだろうか。茶歌丸山とはまた違った緊張をした。これもまた一経験として非常に勉強になった。行かなきゃわからない。そして行ってそんなに悪いことにもならない。楽しかった。京都一人旅はこの上なく楽しいものだった。一人だからこその無謀なチャレンジやストイックさ、行き当たりばったりが楽しくて仕方がなかった。そしてそれをしやすい京都という街。迷いにくいし。もっともっと楽しい場所はあると思う。絶対にまた行きたい。できればこの冬にでも。

 

 

京都旅行記その5。

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その後、下鴨神社へ。ほとんど寺社には興味がないんだけれど糺の森の静謐さには驚く。信じている信じていないの問題ではなく、過去の人がそこを神社にした理由がダイレクトにわかる。どう考えてもここ日常の場所ではないと思わされる。あの感覚を多くの人はパワースポットと呼んでいるのだろうか。あんなに厳かな気持ちになれる場所をそんな陳腐な言葉で言い表すのはどうかと思うんだけど。そう思うほど静謐な空気に満ちていて行ってよかったと思った。

そして金閣寺近くのあぶり餅へ。京都という街は最高だけど公共交通機関が揃っているようで揃っていない。特に電車は乗り合わせが悪すぎる。遠回りでもいいから乗り継ぎで行かせてほしい。乗り換え2回で徒歩2回って初めて見た。それを補うようにバスが運行していて、網羅的ではあるもののやはり本数に問題を抱えている。ここをどうにかすることができればもっと楽しくなるのになーと人ごとのように思ってしまった。あぶり餅は美味しい。ただそれよりも何よりも1000年の重みが楽しい。縁側で対面のお店と参道を見ながら過去の京都に想いを馳せる。泣きそうになってきた。時代が目まぐるしく動く中で変わらぬ店がそこにはあり、そこには一般的な人間の呼吸が息づいている。平安から戦国を経て江戸時代まで変わらずそこにあり、過去に生きた先人たちと視点を共有している気分になると歴史の重みを感じて、なぜか感動した。感情としてはいまいちよくわからない。でも心が動かされる何かがあったのは事実。関係ないところでは神社をショートカットに使うと罪悪感が半端ないということや、静かな中で鐘を鳴らす緊張感とその神秘性、象徴性についてぼんやりと考えを巡らせたりもした。深い考察はまだできていない。神様とつながるための合図であり、通り道的な感じなんだろうか。

京都旅行記その4。

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カプセルホテルの中で5:30に目が覚めて全く眠れていないなと思っていたら次に起きたのが9:30。案の定寝坊。せっかく朝からモーニングに行く予定をたてていたのに。モーニングは結局進々堂のブレックファストへ。クロワッサンが美味しくておかわりしてしまう。その他のものも軒並み美味しくて感動するものだった。にしても外国人の方が多かった。和食を食べたいとは思わないのだろうか。チェーン店感覚なのか、普段ルーティーンで食べてるから変えたくなかったのか。日本で美味しいイングリッシュ・ブレックファーストを食べる意味はあまりないと思うのだけれど。やっぱ海外でマック食べる感覚にちょっと近いのかな。その後京大へ。潜る気満々だったのにまだ秋学期が始まってない。これが国立か。また今度必ず行こうと誓う。そのまま北東へ。慈照寺を横目に哲学の道へ。こんなのが学校帰りにあったらそれは研究も捗るんだろう。

そしてその後に訪れたのはホホホ座という本屋さん。これがまた最高のラインナップ。京都をベースにしておきながら今の話題本をきっちり取り揃える、痒いところに手が届くキュレーション。京都で本屋に行ったかいがあると感じさせる本屋さんだった。体感で一時間くらいいた。何がいいって観光がてら居座ったというよりも単純に本屋として楽しくて長居したこと。絶対にまた行きたい。1万円くらい平気で使えてしまえそうだった。にしても2階に古本があると後で判明。なんにせよ再訪しなければ。一泊はやっぱり短いなと感じる。